メオトカフェ

中年倦怠期夫婦の「カフェ道」

【ひとりごはん】今日だけは…何を食べてもゼロカロリー

朝の光に、ワタシの朝食が輝いている。

健康診断の帰り道、ちょっと素敵でちょっとお高い、あのパン屋さんで買ったものだ。

 

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若い頃はなーんにも考えなくても、気を付けなくても、オールAだった健診の判定は、いつからか、どんなに気をつけても手の届かない存在になった。

精密検査まではいかない年も、体重と腹囲だけは確実に前年を上回っていく。

毎年、健診の数週間前からはおやつ控えめ、ご飯は少なめに、夕食以降は何も食べないように心がける。さらにお通じのリズムに全集中する。付け焼刃的対策で、体重と腹囲の測定に備えるのだ。

 

当然、終われば反動が来る。

 

朝食抜きで、お腹はペコペコ。しばらく体重計には乗らなくていい。薄着になる季節も、もう少し先。

朝昼兼用のブランチということにすればいい。

食べたいもの、食べたいだけ、食べていいでしょ、今日は!

 

…というわけで、食べたいものを、食べたいだけ、選んだ次第である。

 

明太バターフランス。

明太子とフランスパンの組み合わせは、見かけると買ってしまう率高し。ちょびヒゲほどの刻みのりが、なかなかどうして、いいアクセントになっている。

フランスパンをガシガシ噛みしめていると、益田ミリさんの“お茶の時間”というコミックエッセイの中の“イチゴの季節”という話を思い出した。

一個3000円の“エクストラスーパーあまおうショートケーキ“をごちそうしてもらうことを肯定するためにあれやこれやと“言い訳”があたまに浮かぶ。「日々老いていくんだから、一番若い今日食べるのがベスト」ということで心を決めたものの、「今日が一番若いから、今日が一番価値あるわたし?明日は今日より劣化した自分?」と心がざらつくミリさん。「どの自分にも同じだけの価値があると思いたい」と心を整理し、3000円のショートケーキに向かうお話だ。

確かに、若いだけが価値あることではない。

だが、この固いパンは。

一番若い今日噛みしめておくのがいいかもな、と思う歯ごたえだった。

明日も噛めるとは限らない…。

 

卵とツナのクロックムッシュ

少しカリッとした耳までおいしい。お値段に見合った価値がある美味しさだ。ツナと卵のバランスも完璧。絶妙なハーモニーとはこういうことを言うんだろう。

安く美味しいものが食べられたら嬉しいけれど、主が丹精込めてつくり、目を行き届かせた店で提供されるものには、それなりの料金がかかるのだ…ということが胸に迫ってくる。

昨今の回転ずしチェーンなどでの騒動と重ね合わせると、店側やお客のわたしたちの側にも、時代の流れの中で、何か見落としてきたことがあるのかもしれない。

我が家も食べ盛りの子どもがいるので、外食やテイクアウトの際は“安くて腹応えがある”ことが優先順位の一位になってしまう。

だけど、時々はそうじゃないもの…たとえばこんなおいしいパンを一つだけでも食べさせなければ、という使命感みたいなものがこみ上げてきた。

おなかはいっぱいにならないかもしれないけれど、食べ物と、丹精込めて作ってくれた人への感謝の気持ちと感動が、内なる泉から、きっと湧き上がってくるに違いない。

受付けから注文、会計まですべてが無人化・オンライン化され、働く人が見えにくくなった今の時代に育つ子供たちに、大人が伝え忘れていることがあるような気がした。

 

そして最後は、フルーツサンド。

特別な“断面映え”を狙わず、味で勝負のパン屋さんの心意気がサンドされている。

パンも、クリームも、フルーツも、それぞれに優しい甘みがあって美味しいのに、お互いが出しゃばらず、一体化している。“パンと、クリームと、フルーツ”ではなくて、“フルーツサンド”なのだ。それぞれが主役級の力を持ちながらまとまるって難しいことだが、難なくやってのけている。これぞプロフェッショナル。後に残るは、爽やかな余韻のみ。

 

頑張ったあとだから、今日はぜーんぶカロリーゼロ。

気にせず食べると、なおさら美味しい。

 

 

以上、いろいろな気付きと学びのあった、健康診断・朝食抜きの日のブランチでした。

 

 

 

 

 

第13回 【ガレットとイングリッシュマフィンのモーニングカフェ】 人と人って難しい

息子の試合を観戦できることになった。

コロナ禍での入場制限が立ちはだかり、この数年間なかなか叶わなかったが、このたびようやく入場する権利を得ることができたのだ。

年頃息子の応援に親2人がやってくるなんて、本人には迷惑この上ない話かもしれないが、そんなの関係ない。見たいのだから見せてもらうよ。

どんなに大きくなったって、保育園のお遊戯会を見に行ったあの頃となんら変わりない気分。前夜からカメラとビデオの充電もした。

彼が生まれた時に購入したビデオカメラはもう古く、取り出すのをちょっとためらうような大きさだけど、ワタシ達とともに彼の成長を見守り、記録してきてくれた。きっと出番はもう何度もないだろうけど、引き続き頼むよ。

 

さて、親バカはこのくらいにして…

 

この日は楽しみなことがもう一つ。

昼間の中途半端な時間からの試合なので、その前にモーニングを楽しもうという計算である。

ワタシにとってはメインイベントが一日に2つあるような、ワクワクの1日になる。緊張している息子にこっちのお楽しみの方はバレないようにしながら、数日前から候補の店をリサーチした。移動時間、会場入り時間、カフェの営業時間…段取りは完璧だ。

 

いざ、出陣!!

 

息子を送り出し、こちらはゆっくりめに出発して、お目当てのカフェを目指した。

 

 

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お昼に手が伸びそうな時間なのに、カフェは混んでいた。皆、休日の朝食(ブランチ?)を楽しんでいるのだから、当然時間がかかる。

少し待たねばならない。

さあ、間に合うか…。入場時間に遅れて、試合を見逃しては本末転倒だ。

注文するメニューを先に決めて待っていると、ほどなく名前を呼ばれた。

 

「ここから何分くらいかかる?」

「間に合うかな?」

そんな会話をしていると、ワタシ達のモーニングセットが運ばれてきた。

 

ワタシはガレットのセット。美味しそう。

家で気軽に食べるものでもないし、おそらく“ガレット“が何か知らないであろうオットにも、ささやかな初体験を提供したかったのでこの店を選んだ。

 

ガレットの他、サラダとシリアル入りのヨーグルトがついて、なんとドリンク料金のみである。お値打ちでありがたいが、値上がりが続くこのご時勢、いくらお客さんが入っているとはいえ、これで採算がとれるのかと心配になる。

お客の懐に優しいのは嬉しいサービスだけど、よい店は長く続いて欲しいと思うから。

 

 

オットはイングリッシュマフィンのセット。ベーコンエッグが乗って、こちらも美味しそう。

昔ワタシが何気なく買ってきた、“超熟”のイングリッシュマフィンが大好きになってしまったオット。休日の朝はよく頬張っている。

ガレットやサンドイッチ、トーストの他に、イングリッシュマフィンが選べることも、この店を選んだ理由だ。

 

そう、ワタシはいつもオットのことを考え店を選んでいる。気付いているかな?、オットよ。

そしてオットはいつも、ワタシが選んだ店が遠くても近くても、何も言わず連れてきてくれる。ワタシが喜ぶからだろう。

 

 

相手を喜ばせたいという想いをまだ失っていないことが、ワタシ達夫婦の生命線なのかもしれない。

長く生活を共にしているといろいろと雑になる部分も出てくるが、時々立ち止まって相手のことを考える、相手のために行動する。

そしてワタシ達は、なんとか保たれている。

 

 

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息子のチームは身の丈以上の結果を残し、歓喜したのも束の間、翌日は肩を落として帰ってきた。

 

一番の技量を誇るチームメイトが、「オレがいなければあの成績は残せなかった」と言い切り、紙にビッシリ書かれた自分以外の選手の悪いところを読み上げたそうだ。

「これは悪かったから、次はこうしようとかいう提案じゃなくて、ただみんなの悪いところを責め立てる感じ。いいプレーだっていっぱいあったと思うんだけど」

“彼”が熱さのあまり、仲間にきつい言葉をストレートにぶつけてしまう…ということは今に始まったことではないのだが、息子はそれに慣れることなく、その都度心を痛めていた。

「オレ、そんなつもりで学校入ったわけでも部活してるわけでもないんだよね。どうして仲良くやれないんだろう?」

「全然楽しくない。なんか、人間不信」

 

部活をやるために入る学校ではないし、息子に限らず、大半の生徒は勉強やその他の学校生活と両立できる範囲で活動している。熱量が高い選手が、「仲良く、楽しく」の他のチームメイトに苛立つのも、わからなくはない。

 

子供らしくぶつかり合って折衷案をみつけていけばいいと思うが、息子を含め、誰もそうしようとはしないようだ。監督やキャプテンまでもが沈黙を守り、嵐が過ぎるのを待つ。繰り返し起こる嵐に耐えられない者は、非がないのに去っていく。

なんだか大人の世界みたいだ。

これが現代の若者の人間関係のスタンダード?

 

子供たちがぶつかり合わずに大人になっていくのかと思うと、寂しくもあり、心配でもある。

誰かに本当の気持ち、モヤモヤしている想いを聞いて欲しい、でもこの人に打ち明けても大丈夫だろうか、誰なら信じられる…?

今息子は、そんな荒波の中でもがいている。

アンジェラ・アキさんの「手紙~拝啓十五の君へ~」が思い浮かぶ)

 

思春期の息子を見守るワタシ達にも、それなりの胆力が必要だ。

 

 

相手のことを想うことが大切だと、背中で語れる夫婦になれるよう、精進します。

そして、君がこころの内をいつでも話せる親でいられるよう…重ねて精進します。

更年期で倦怠期な父と母も、いまだ勉強中なのです。

隔離部屋で「ととのう」

 

2023年。年が明けて、まずワタシの身に起こったのは“喉の違和感”だった。

 

痛みというほどではない。

乾燥した部屋で寝たからかな(たぶん口も開いていた)?

年越しにちょっと食べすぎて消化不良(逆流性食道炎の既往アリ)?

 

それとも、まさか…アレ?

仕事納めから4日。掃除や正月準備に勤しんでいた。どこにも出かけていないし、誰にも会っていない。

そんなはずはない。

だが、念のため。家の中だがマスクをつけた。

 

翌二日。喉の違和感は治まらない。微熱がある。

そんなはずはない。

だが、念のため。オットと子供たちを残し、ひとり二階の部屋にこもった。

 

熱は少しずつ上がり、咳も出始めた。

そんなはずはない。

だが、念のため。休日診療所に電話した。

 

おそらくそんな人々で回線はパンクしているのだろう。時間内に電話はつながらず、翌日再チャレンジした。家族総出で200回以上電話をかけ、ようやく診察予約がとれた。

そんなはずないのだから、ワタシが貴重な診察枠を使っていいのかと申し訳なく思いながらも、持病があるので受診した。

 

車で結果を待っていると、医師からの電話が鳴った。

「バッチリ陽性ですね。」

 

そんなはずはない。

家族は全員抗原検査陰性で、当のワタシはどこにも出かけず、誰にも会っていないのだ。

半信半疑で、(バッチリじゃない陽性もあるの?)などと医師の言葉を反芻しながら、どうでもいいことが気になった。

 

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かくして正月早々、7日間の隔離生活が始まった。

 

子供たちは冬休みだし、作り置いたおせちやおもちが残っている。オットも長年かけて“名前のある家事”はだいたいできるようにしてある。母がいなくでも大丈夫だろう。

 

実際問題、ワタシは5回目のワクチンを打って万全な頃合いだったにも関わらず、高熱と咳が出て、何ができるわけでもなかった。

どういう経緯で感染して、どういうわけでこんなに症状が出ているのか、まるで納得できなかったが、現実を受け入れ部屋に閉じこもっているしかない。できることと言えば、家族に移さぬようにすることだけなのだから。

 

食事は3食きちんと運ばれてきた。

始めこそ「これは病人には食べられないのでは…?」という“男飯”でほとんど喉を通らなかったが、徐々に適量の病人食へと進化していった。

オットは“名前のない家事“には手を出さないので、食事を作り、片付けたら、スマホをいじったり昼寝をしたりの“ぐうたら主婦”として、仕事がある通常の年始よりは体を休めることができているようだった。

長男はハードスケジュールの部活を休むことになり、年末のドラマを一気見して、間に合わないはずの宿題が間に合いそうな気配。

ゴロゴロ大好き・冷え性の次男は、ちょっと暇になった兄に遊んでもらい、好きなだけコタツでゴロゴロしてご満悦だ。

一階は日に日に“男たちの楽園”と化しているようであった。

 

ワタシはといえば、4日目くらいに熱が下がり体は少しずつ楽になっていった。

運動でもしなくてはとヨガマットを敷いてみたが、暖房なしの劣悪な隔離部屋だったため、寒くて布団にくるまっているしかなかった。

布団の中で、年末に図書館で借りた本を読み、疲れればウトウトした。お腹がすいたころ、食事が運ばれてくる。

 

窓から昼間の明るい日差しが入る中、布団の中でまどろみながら、ワタシは完全に「ととのって」いた。

心と体が、これほどまでに解放されたことがあったろうか。

 

今日のご飯は何にしようと考えなくていい、子供のスケジュールを頭に叩き込み送り迎えに振り回されなくていい、どこか汚れていても気にしなくていい、仕事のことを考えなくていい…、あれも考えなくていい…、これもしなくていい…

 

日常の“〇〇しなければ”の全てから解放されると、こんなふうになるんだ…。

 

劣悪な隔離部屋はワタシにとって、まるで絹の繭のようだった。

退屈なんて感じない。7日を過ぎてもしばらくそこに、とどまっていたかった。

 

 

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万全な回復とはまだいかないものの、無事に隔離期間を終えたワタシは、元の慌ただしい生活に戻った。

あの繭の中での生活は夢の中の出来事だったのかな、と思うほど、もう遠い感覚になりつつある。

 

今回の出来事で、いかに自分が日常の中で「しなければ」に蝕まれていたのか、よくわかった。

何もない部屋で、何にも脅かされず、何とも接しず、何も考えず、何もしないことがこんなにも自分を楽にしてくれるなんて、これまで何十年も生きてきて、知らなかった。

これくらいの忙しさや大変さは普通だと思って生活していたが、“無”を経験するといかに日々いろいろなものに縛られ、頑張っているかに気付かされる。

 

どんな素敵な温泉に出かけても得られない体験をした正月だった。

 

 

もちろん穏やかに療養できた陰には、家族はもちろん、仕事をフォローしてくださった職場の皆さんや、何年も頑張り続けてくださっている医療従事者の皆さんの存在がある。また、経過が思わしくない患者さんも多数おられる。そのことを忘れてはいけない。

 

今回の体験はコロナの特殊な療養態勢により得たものだが、できることならば、病気でなく、誰もが助け合いのもとでこんなふうに心と体をゆっくりリセットできる機会が得られるといいのになあ…と思った。

お互い様の気持ちで、社会全体で“エスケープ休暇“を贈り合うことができたなら。

自分が繭の中で休ませてもらったからこそ、強くそう思う。

 

 

第12回 【いつものカフェ】年末だからって、はしゃがない、はしゃげない。

2022年最後のメオトカフェ。

年末カウントダウン(日にちの)が始まっているというのに、2人でカフェに行く時間がとれないでいた。

「この日の夜なら」という日があって、できたばかりのカフェなど調べてみたりもしたが、どうも気が進まない。

師走。師ではないが、やはり年末はあれやこれやと忙しく、疲れていた。

こういう時はあまり新しいものに手を出さないほうがいい。

行き慣れたカフェで甘いものでもつつきながら、ゆっくりコーヒーをすするのがいい気がしてきた。

 

 

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今年一度も食べていないモンブランを注文した。想像していたより甘かったが、疲れた体にはちょうどいい。

今年の「シメカフェ」だけど、今年1年を振り返るでも総括するでもなく、ケーキを頬張りながら子供たちの近況などについて話した。

長男は思春期でいろいろあったが、年末にひと山越えた感覚があり、もちろんこれからもいろいろあるだろうけど、文字通りほっと一息のコーヒータイムとなった。

 

なんとなく、1年の最後はそれらしい?カフェで過ごすようなイメージでいたが、現実は全然違った…。庶民のカフェでいつもの話をして終わった。

 

でも、年を重ねてしみじみ感じる。

昨今の世界情勢や異常気象をみても、健康で、何かに脅かされることなく、いつもの暮らしが営めるってほんとうにありがたいことだ。

こうして二人でコーヒーを飲めることに感謝。

 

そう、何も(災いが)起こらないことに関して感謝の念が強くなった。

 

それにコロナ禍で自粛生活に慣れてしまったせいなのか、年のせいなのか、元々の性分なのか、「特別なこと」がとても億劫になった。

ここはオットも似たところがあるので、行動制限がなくなった年末で世間が多少浮かれていても、ワタシ達夫婦の周りはシンとしている。

 

来年もつつましく健やかに、できれば仲良く暮らせるといいな。

この年末の願いは、もうそれだけである(老夫婦?)。

 

できることなら、世界中の人々が、誰でも、疲れた時にカフェタイムをとれるような時代になればいいなあ。

 

 

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倦怠期の2人の関係をなんとかしようと、ワタシの一方的な提案で始めた月に一度だけのカフェ巡り。途絶えることなく1年続いたのは我ながら驚きだ。NOと言わず付き合ってくれたオットにも、何かしらの楽しい要素があったのだと信じたい。

 

月に一度だけ。つかず離れず、2人の間に小さなテーブルとコーヒー一杯。そのくらいの距離感が、ワタシ達にはいいのかもしれない。

 

倦怠期夫婦は今年1年持ちこたえ、メオトカフェは来年も続きそうな気配。

引き続き、どうぞ ごひいきに。

サンタクロースの正体は

「サンタクロースって本当にいるの?」

 

小学校3、4年生にもなるとそんな問いをぶつけられる親も多いのではないだろうか?

(このころ、サンタを信じない子の割合が信じる子を上回るそうだ)

 

我が家の子供たちはもっとウンと大きいけれど…そんな風に問われたことはない。

だからこの問題に真っ向から向き合うことなく、ここまで来た。

少数派だと思うが、我が家には、いまだサンタがやってくる。

 

子供たちは、わかっちゃいるけど、その問いをぶつけてしまったらプレゼントも終わってしまうと損得勘定で黙っているのか、親のためにそっとしておいてくれているのか、まさかとは思うけどまだ信じているのか…

いずれにせよ毎年、双方沈黙のままクリスマスの朝がやってくる。

 

リクエストには応えず、完全にサンタ‘sセレクトのプレゼントなので、大喜びの年もあれば、ふうーん…という年も当然あるけれど、趣味のものや学生が重宝するであろう実用品中心なので、だいたいはイイ感じで使用されている。

 

 

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先日新聞に、絵本「サンタクロースってほんとにいるの?」の著者である経済学者の暉峻淑子(てるおかいつこ)氏のインタビューが掲載されていた。

この本を、「サンタはいない。あれはお母さんやお父さんだった」という本ではなく、「サンタはいる。あれはお母さんやお父さんや親切な大人たちだった」という本にしたのだそうだ。

幼い息子さんが枕もとのプレゼントに喜んだあと、両親にプレゼントがないことに気付き、自分がもらった積み木を数個ずつ分けてくれた、そんな体験も思い出して書かれたのだとか。

「与えられれば今度は与える側に回る。人間は順繰りに、そうやってきたのです」と氏は語る。

「サンタってうそじゃないの?」と息子さんに聞かれたときはこう答えたそうだ。

「サンタの気持ちを受け継いでサンタになりたい人がたくさんいて、なっているの。だからサンタはいるのよ」

 

 

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トナカイに乗ってこなくても、煙突から入ってこなくても、ぽっちゃりしてなくても、ポチっとしても、いいのだ。

サンタは確かにいる。

絶滅しないで毎年現れ、無条件の愛を贈る。

 

「94年生きてきて、そっと誰かの力になれたという以上の喜びはないと、しみじみ感じます」という暉峻氏の言葉に深くうなずく。

 

 

今年も、きっと来年も、もういいよって言われても、きっと我が家にはしつこくサンタがやってくるだろう。

彼らがサンタになりたい日が来たら…その時は潔く引退するつもりである。

 

 

 

 

*インタビューの内容は2022年12月18日の朝日新聞の記事より引用させていただきました。

2022年 お勧めしたい「カフェ本」

カフェに行くのは基本的に月に一度と決めている。

 

コロナのことや、節約の意味も大きいけれど、いつでもどこでも車移動の田舎暮らしでは、基本的にお店で休憩や時間潰しをする習慣があまりないのも大きい。

カフェでお茶するということは、田舎で暮らす多くの人々にとって、“ほどほどに特別な“ことなのではないかと思う。

 

お店に行けない日々は、家でコーヒーやお茶を飲みながら、カフェに関する本や雑誌のページをめくり、妄想カフェを楽しんでいる。

 

そこで今日は、今年読んだカフェ本の中で、特に好きだった三冊をご紹介したい。

 

 

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ときどき旅に出るカフェ

ミステリ作家としても知られる小説家・近藤史恵さんの連作短編集。

サラサラと、流れるように読みやすいので、いつの間にか自分が物語の舞台である「カフェ・ルーズ」に長居しているような錯覚に陥ってしまう。

 

平凡なOL瑛子が近所にみつけた素敵なカフェの店主・円は偶然にも瑛子のかつての同僚(後輩)。円が海外などの旅先で見つけたものを再現した、耳慣れない素敵な飲み物やお菓子とともに、日常の小さなミステリの絡まった糸が静かにほどけていく…そんなお話だ。

仕事は安定し気ままな生活をしているが、お局様と言われる年齢にさしかかり、将来への漠然とした不安を抱える独身OL・瑛子と、OL時代は印象に残らないほどおとなしい存在だったのに、たくましく店を切り盛りする店主・円。

同僚時代に深い関りはなく、異なる人生を送っていた二人が、「カフェ・ルーズ」で再会し、カフェでの出来事や時間を共有しながら、「かつての同僚」「店主と客」という立場から「大切な人」になっていく。「カフェ」という場所、空間の持つものにどこか似ている二人の関係。二人の間にはいつも程よい距離感と思いやりがある。

 

カフェで提供される世界各国のお菓子や飲み物は、物語を邪魔しないように、世界は自分が思っているよりずっと広くて多様な価値観があること、何ごとも自分で試してみなければわからないこと…いろんなことを教えてくれる。

スイーツ好きな方や、お家でカフェ気分の休日のお供におすすめしたい本だ。

 

マカン・マラン -二十三時の夜食カフェ

作家の古内一絵さんの作品。全4巻。

4冊もあっても、きっと夢中で一気に読んでしまいたくなる。

1冊につき4つのストーリーが入っており、それぞれのストーリーに主人公がいる。それは家業を捨てた漫画家アシスタントだったり、母親の料理を食べなくなった男子中学生だったり、発育に心配がある子を持つ母親だったり、早期退職の候補になったキャリアウーマンだったり…。

一見自分の境遇はそのどれにも当てはまらないようでいて、それぞれの主人公と自分の重なる部分を感じてしまう不思議。「自分とは違う誰か」の物語のはずなのに、そのどれもに共感してしまう。

深夜営業の夜食カフェ「マカン・マラン」の店主であるドラァグクイーンのシャールが、悩み、傷ついた主人公(お客)たちに手作り料理と共にそっとかける言葉は、いつのまにか自分に向けられた言葉となって、胸に染みる。

カタチは違えど、人を苦しめるのは「虚しさ」なのかもしれない。

カフェで過ごす客たちはシャールの料理と言葉に癒され、自分の力でまた前に進み始める。虚しさで空っぽになった心に、たっぷりの栄養を注いでもらって。

一日の終わり、ベッドの中での読書などにおすすめだ。

 

喫茶人かく語りき -言葉で旅する喫茶店

ライターであり、喫茶写真家でもある川口葉子さんの著書。

装丁からして、喫茶店の重厚な扉を開けたような気分になる。カフェ・喫茶店のオーナーたちの名言集は読み応えたっぷりで、店の空気感を写し取ったような写真の数々にも見入ってしまう。とても美しい本だ。

カフェとは、喫茶店とは、コーヒーとは…各人の答えは本の雰囲気同様重厚で、十人十色なようでいて、共通点があるようにも思えてくる。

カフェに求めるものは人それぞれだろうが、自分も含めカフェでの時間を過ごす人は皆、「小さな救い」を求めているのかもしれない。コーヒーや場所を提供する側の彼らもまた、もしかしたらカフェ、喫茶店、コーヒーに救われた経験のある人たちなのではないか…そんなことを思ったりした。

コーヒーだけでなく、カフェ・喫茶店という場所が好きな方におすすめの本だ。

 

 

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いずれもカフェにいるような気分になれる、素敵な3冊。

年末・年始、少し時間ができた時に…コーヒー片手に妄想カフェ、ご一緒にいかがですか?

 

 

 

 

第11回 【裏通りの本格カフェ】ありのままのワタシたちで

11回目のメオトカフェ。

今回は街の図書館の近くの、小さなカフェを訪れた。

 

図書館近辺にはいくつかのカフェがある。表通りに面したカフェの窓辺の席で、コーヒーを飲んでいる人たちを行き帰りにチラッと見ては、いつか私も…と思っていた。図書館で借りた本を読みながらコーヒーをいただくなんて、素敵な休日にもほどがある。

憧れてはいたものの、なかなか叶わないでいた。図書館には用事の途中で立ち寄ることが多かったし、本を借りた(返した)安堵感からか、うっかり駐車場を出てしまうことがほとんどだった。カフェには駐車場がなさそうな気配。行くのなら、図書館の駐車場(兼公営駐車場)に車を止めたまま、歩いていくのがよさげなのだ。

 

そんな風に心の段取りだけは万全だった表通りのカフェではなく、今回お邪魔したのは裏通りの、そのまた裏通りの路地に静かに佇む、小さなカフェである。「なんでなの!」と自分でも突っ込みたくなる。

こんなところにカフェがあるとは知らなかった。裏通りの裏通り、通りかかることは皆無の場所だったが、知ってしまったのだから仕方ない。

 

小さなカフェに入るのは、少々緊張する。しかも自家焙煎が売りのお店。狭い空間、何かに紛れることもできず、店主にも、他のお客にも、自分の品定めをされるような気分になるからだ。「ちゃんとした客であらねば」というような不要な気合いが、さらに敷居を高くする。

 

店に入れば案の定、窓辺にはワタシ達より一回りくらい若い、こなれた男性客がひとり。

ほらほら、様になってるもん。コーヒー知ってます感、出てるもん。

昔(ワタシ達が若い頃)、この街ではこんな風にカフェの窓辺で、一人ただゆっくりとコーヒーを楽しんでいる若い男性は、そう見かけなかった。

 

奥にはオーナーと知り合いらしい、女性客がひとり。オーナーと会話しながら、時間を潰しているらしかった。

ほらほら、様になってるもん。この店いつも来てます感、出てるもん。

昔(ワタシ達が若い頃)、この街ではこんな風にひとりやってきたカフェで、オーナーと会話しながら時間を過ごす女性は、そう見かけなかった。

 

ワタシ達より少し後にはリュックを背負った、学生風情の若い男子が入店。「カフェ巡りをしているんです」と、きっとどこか遠くからやってきた青年は、嬉しそうにオーナーに微笑んだ。

ほらほら、様になってるもん。イマドキ男子感、出てるもん。

昔(ワタシ達が若い頃)、この街ではこんな風に「カフェ巡り」なる旅をする青年は、そう見かけなかった。

 

さて、中央の一番大きなテーブル席には、ワタシ達二人。

カフェの達人達に、ワタシ達はどう映っているのだろう?

初心者とはいえ、11回目ですからね。こなれ感、出ちゃってますか?

 

ワタシは定番のカフェラテを。

オットはドリップコーヒー。

バリスタに「深煎りにしますか?浅煎りにしますか?」と尋ねられ「はい?」と聞き返すオット。同じ質問をされ、「ああ、フカイリで」と答えると、「かしこまりました」とバリスタは作業に取り掛かった。

オット、絶対わかってないな…苦いの苦手なのに、なぜ深煎りを?

わからない時は「苦いのは苦手なんですが、どんなのがお勧めですか?」などと聞けばいいと思うけど…このこなれ感たっぷりの店内では、知ったかぶりも無理からぬことかもしれない。

ハッタリ、見破られたか?

 

飲み物と一つだけ頼んだお菓子がテーブルに到着し、カフェタイムが始まると、緊張はほぐれ、店内の本や雑誌をパラパラめくっては少し会話を交わし…と自然にいつものワタシ達のスタイルになっていった。

昔(ワタシ達が若い頃)、この街ではこんな風に午後のティータイムを過ごす中年夫婦は、そう見かけなかった…ような気もする。

 

こんな田舎町にもカフェが増え、本格コーヒーを気軽にいただけるような時代になった。足を運ぶお客もきっと昔とは違い、老若男女、外国人だって増えた。

カフェにはいろんな人が訪れる。

 

そもそもカフェで過ごす時間には、プロもアマもないのだ。

 

窓辺のこなれ客も、奥の常連女性客も、旅の途中のイマドキ男子も、知ったか夫とやや気合い入り妻の夫婦も…午後のひととき、思い思いの時間を過ごしていた。

 

何に緊張していたのだ、ワタシ。

こなれ感なんて必要ない。ワタシ達はワタシ達らしく、いい時間が過ごせればそれでいいのだ。

 

 

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「こんなところにこんなカフェがあるなんて、知らなかったなあ」

カフェを出て、オットがつぶやいた。先月も似たようなセリフ、聞いたような…。

小さな“新しい”を知ることは、小さな“幸せ”に気付くことでもあるような気がするこの頃のカフェの帰り道。車では入りにくいような路地裏の道を散歩した。

 

 

 

次は「浅煎り・中煎り・深煎り」について、二人で少しだけ予習して出かけますか。